勇敢、ということは別に怖れを知らないことを意味するわけではない。
怖れることに打ち克てる心。それこそが真の勇気と呼べないだろうか。
聖女騎士団のなかでも桁違いの実力を持つクロスナイツの面々は
周囲からは勇敢であると思われている。傷だらけになりながら、異形の化け物と
命を懸けて戦い続けているのだから。
しかし。
彼女達が恐怖を感じないかといえば、そんなことはない。
いくら強いといっても、彼女達だってただの人間に過ぎないのである。
ましてや女性の身だ。いつも恐怖に震えながら、それでも剣を振るってきたのだ。
「おぉ…お…お…」
セシリアが敗れて囚われてから、数日が過ぎていた。だが彼女がこの場所で
目を覚ましてから、その監禁者たちは彼女の前に一切姿をあらわすことはなかった。
当然、食料どころか水すら一切与えられていない。
「おご…おお…」
魔力の流れを乱して”魔法闘技(マジカルアーツ)”を無力化するらしき腕輪をつけられて
ただの女に成り下がってしまったセシリアには、どれだけもがいても拘束を解くことはできない。
魔力供給を絶たれてしまったミスリルメイルは彼女の自由にはならず、自力で消せない
拘束服となってしまっていた。何せ絶大な守備力を持つ防護服のこと、通気性が
よいはずもなく、彼女が囚われている高温多湿なその石牢においては、強烈に
彼女の、少し強い程度の、ただの女性並みでしかなくなった体力を容赦なく
奪い去っていく。最初は口枷からだらしなく、止め処なくあふれ出していたよだれも
もはや一滴も出ては来ない。そのまま垂れ流すしかなく汚臭を撒き散らしていた小便も
出なくなって久しい。
最初こそ囚われて拷問にでもかけられるのかと、恐怖で身を硬くしていたものの、
いくら待っても誰の気配もない。そうなると今度は、このまま見捨てられて朽ち果て
させられるのか、という新たな恐怖が彼女の精神を侵していく。
暗い。音もない。誰もいない。ただ一人、世界に取り残される。そんな感覚が
彼女を少しづつ蝕んでいく。
それでも、彼女は取り乱したりはしなかった。ここで恐慌を起こして我を失えば
生存の可能性をも失うことになる。恐怖に襲われてもそれに支配されないのはやはり、
彼女は勇敢であったということだろう。
「…!?」
一体どうすればこの状況を打開できるか。セシリアが必死にめぐらす思考を、けたたましい
足音が切り裂く。もっとも、足音自体はいたって普通の大きさだった。
それがそう感じられるほどに、彼女は自分以外が出す音に餓えていたのだ。
「おーおー、辛そうだな公女様よぉ」
それは知った男だった。ミルディン家にかつて使えていた下男。
素行不良で解雇されたのだが、以来ミルディン家を逆恨みしていたらしい。
「……」
セシリアは男を無言で見つめる。自分は魔力を封じられてただの女にされ、しかも拘束された状態で、
目の前には大男。それも多分自分に対して憎しみをもっている。
怖かった。とてつもなく恐ろしかったが、それを悟られまいとつとめて冷静と無表情を装う。
「水が欲しいか?くくっ、そうだろうなぁ。何日も飲まず食わずだもんなぁ」
「お…ご…」
欲しかった。何よりも水が欲しかった。このままでは間違いなく死んでしまう。それも近いうちに。
元下男はにやりと厭らしい笑みを顔に貼り付ける。セシリアの状況をよく理解していた。
というより、こうなるまで待っていたのだ。
「…おぐおっ!?」
セシリアは絶句した。男がいきなり下半身を露出したのだ。股間のその野太いものを見て
激しい嫌悪がこみ上げてくる。
「生憎水は持ってねえんだがなぁ…黄色いやつなら、ここから出てくるぜ?」
怖気の走る気色の悪い微笑。
「お、おうおっ…!!」
最早無表情を保てなくなり、セシリアは驚愕と怒りの表情を浮かべる。この私に、その汚らしいものから出る
排泄物を飲めというのか…!
修道女として気さくに一般民衆とも接する彼女であったが、やはり貴族として、公女としての高いプライドは
持ち合わせていた。本当は感情に左右されやすい自らを律し、常に無表情の仮面を被る彼女は、
しかし感情の振れ幅が一定の段階を超えてしまうと感情の制御が利かなくなり、無表情が剥がれてしまう。
かつて貴族としてあごで使っていたような卑しい男に、公女である自分がこのような仕打ちを受けるなど。
その、あまりの屈辱で、制御できる限界を超えてしまったのだ。
「ほれほれ、お願いしてみろや、この俺様に。ああ!?」
男は大声で怒鳴りつけ、厭らしい顔をセシリアの顔に限りなく近づけて凄む。
「お、おうぉ…!」
屈辱よりも恐怖が心を覆っていく。既に感情制御の限界を超えた彼女は恐怖を隠し切れず、おびえた表情を
見せ始める。しかしそれでも、強い自尊心は彼女に屈することを許さない。
「うおっと…!ここでその顔たぁ、気の強い女だぜ」
完全に優位に立っているはずの男が一瞬怯むほどの気迫で、セシリアは男を睨みつけた。
「おー!おおーっ!!」
必死にもがき、拘束を解き男に殺到しようとする。それが無駄であることなど聡明なセシリアには百も承知だった。
しかし、たとえ殺されても、こんな男の思い通りになど断じてならない…!その強い意志を目の前の男に示さぬでは
おれなかったのだ。
ところが。
セシリアはここで、突然に動きを止める。
「あ?…何だ?急に止まって…」
いぶかしげに男はセシリアの顔を覗き込む。
セシリアは思い出したのだ。クロスナイツが結成された、あの日のことを。
―生き残れ。
エーヴェルは言った。
戦う力があるのはここにいる私たちだけだ。
一人死ねば、敗北に近づく。それは即ち国の滅亡へとつながる。
だから、死ぬな。何があっても生き残れ。
私たちが守るべきは、誇りなどでありはしない。
そんなものは今この場に捨てて行け。
地に這い蹲ろうとも、泥水をすすろうとも、敵に命ごいをしようとも。
どれほど無様であっても構わない。どんなに惨めであっても構わない。
生きろ。生きて、勝て。
今ここで、その覚悟を決めるのだ―
セシリアは恥じた。
自らにその覚悟がなかったことに。
誇りを守って死ぬなど、ただの自己満足に過ぎないのだ。
(それに…―)
もう一つ、彼女は死ぬことのできない理由を思い出す。
親友、エリーゼの存在だ。
エリーゼは誰より心優しく、そして人一倍臆病な性格だった。ハッキリ言って、戦うことに向いているとは
到底思えない。
こう言っても誰も信じないのだが、10数年を最も側近くで過ごしてきた親友としては、そのように断ぜざるを得ない。
彼女はその強い慈愛の心のために、他者が傷つくのを見過ごすことが出来ない。戦うのは怖い。死ぬほど怖いが、
人が傷つくのはもっと怖いし、誰にもこんな怖い思いをして欲しくない。
だから自分が戦う。だが、戦えば相手が傷つく。そして、相手が傷つくことで、自分が傷つく。
その、繰り返し。彼女は絶望的なまでに、戦いには不向きだった。
少しづつ少しづつ、確実に心をすり減らしていく親友の姿を、やはりセシリアは側近くで見ていた。
それ故に、よく知っていた。自分こそが、彼女の心の支えなのだと。他の誰でもない。
自分がもっとも、彼女にとって特別な存在なのだと。
それは別に、自惚れているとかではない。
これまでの人生のおよそ半分を共に過ごして来た。ずっと互いを支えあい、高めあってきた。
根拠だとか理由だとか、そんなものはいらない。そうだからそうなのだ、としか言いようがない。
それだけのものを、二人で積み重ねてきたのだ。
だからこそ…もしここで自分が死んだら、彼女はどうなるだろう。
間違いなく、そのちっぽけな心は壊れ、砕け散り、元に戻すことはできなくなるだろう。
そんなことは、許されない。何があってもそれだけは認められない。
セシリアは、覚悟を決めた。
この先、どんな屈辱にも、辱めにも耐えてみせる。プライドなんていくらでも捨ててやる。
地に顔を擦り付けよう。泥水だって飲み干してやる。舐めろというなら敵の足の裏でもアレでも、いくらでも
舐めてやる。
生きる。
絶対に生き残る。
他のなにものでもない。
ただ、エリーゼのために…―ー―!
「お、おあへ、へっ…!」
「何…?」
男は当惑した。つい今まで眼光だけで殺されそうな勢いで自分を睨みつけていた目の前の女が、
いきなり膝を突き、しおらしい顔で自分を見つめだしたのだから。
「おえあい…おあへへ…おひっほ…」
口枷をされているため、女が何を言っているのかわからなかった男だが、やがてその言わんとするところを
理解すると、その下賎な顔に下種な笑みをよみがえらせる。そして、女の耳元とで何やら囁く。
それを聞いて女はまた驚愕と憎しみを取り戻すが、すぐにそれを押さえつけて言葉をつむぐ。
「お、おえあい、ひあふ…おおえへんあえふおえいえい、ああははあおおひっほ、をおういうああいあへ…っ」
お願いします。この下賎な牝奴隷めに、あなた様のおしっこをお恵み下さいませ…。
その言葉を放ったその瞬間―
彼女は自分の中の何かが壊れる音を、確かに聞いた。
男は、高らかに笑う。
女は、俯き肩を震わせる。
パルミラの、いや世界中でも有数といえるほどの高貴な身分の女の、神々しいまでの美貌を持つその顔を、
社会の最底辺にあるような下賎な男の、どこまでも無様で粗末で汚らわしいイチモツから出される、臭気を放つ
液体がぐちゃぐちゃに穢して行く。
口枷の穴や隙間から微量にしか入ってこないそれを、女は必死に貪り飲む。
生きるために。
ただ、生きるために。
「う…うええっ…あ、あ〜っ…」
セシリアは泣いた。幼い少女のように、大きな声を上げて泣き出した。
最早感情を全く制御できなくなっていた。
実は仲間達の誰より激しい感情の起伏を、鉄の自制心で押さえ込んできた。その箍が、いま完全に崩壊した。
涙の河は堰を切って止め処もなく流れ落ちていく。
覚悟なら、したはずだ。
エリーゼのためなら、どんなことにだって耐えてみせる。
自分なら、それが出来る。
その、はずだった。
結局、彼女は理解していなかったのだ。
心をすり減らして戦ってきたのは、エリーゼだけではなかったことを。
彼女の心にできていた小さな亀裂。
それはここにきて決定的な綻びとなり、彼女の心を破壊した。
壊れた心は二度と元には戻らない。
この後、隙を見て自力で危機を脱することに成功したセシリアは、仲間達の元に戻ると
また無表情を取り戻した。
表面的には何も変化がないように思えた。心配していた仲間達も安堵する。
だが、心の侵食は止まることはなかった。
邪神アスクラヴィスがミルディン家の始祖、戦女神ケイロンにかけた呪いによって、
それを歴代で最も強く受け継いでしまった彼女は、これ以降の戦いで何度も何度も、繰り返し繰り返し
筆舌に尽くしがたい苦痛と屈辱を受け続けることとなる。そしてついには、それを快感に変えることでしか
正常な心を保てなくなっていく。
そうして植えつけられた倒錯的、変態的な性癖は生涯にわたって彼女を苦しめ続けることとなるのだった。
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