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 「え…囮、ですか?」
 「そ、囮」
 ジャミルは、目を真ん丸くして私の話を聞いていた。まさか、正攻法が通じる相手だと
でも思ってるのかしら。ほんとにこの娘はおつむが鈍いわね。
 「このあたりは海に近いから、水の”気”で満ちているわ。で、私の魔力は
その水気と結びつきやすい性質のものなのよ。わかってるとは思うけど」
 ん?何をぽかんとしているの?魔力と自然の”気”の結びつきなんて、神学校で習った
でしょ?卒業試験だって、学科があるはずだし、いくらなんでも覚えてないなんてことは…
はあ…。あり得るか。この娘なら。本当に脳みそは食い気くらいしかつまってやしない
様だから。鳥は3歩歩いたら覚えたことを忘れるって聞くけど、この娘も同じらしい。
 しょうがない、一から説明してあげるから、その鳥頭にいっぱいの食い気を放り出して
からっぽにして、耳の穴を大掃除してからよくお聞きなさいこの愚か者。
 まず、自然は様々な”気”に満ち溢れている。水なら水気、火なら火気、などと言った
具合に。そして、この世の生物は遍く体内に魔力を有する。その魔力は、個々で性質が
異なるもので、その性質は必ず自然の”気”のどれかと結びつきやすいようにできている。
”気”と結びやすい魔力とが近づくと、そこに”感応”が起こり、魔力が増大する。そうなると、
感覚が普段の何倍も鋭敏になり、身体能力も高まる。要するに、自分の魔力の性質を
把握し、その上で戦いやすい場所を選ぶ、それがセオリーというわけだ。
私の場合は海の近くが最もいい。ジャミルは木気、すなわち植物の”気”のある場所、
例えば森などが最適だ(ここで気づいた人もいるだろうけれど、植物は生物である。
つまり生物もまた自然のものであり、それ自身”気”を発しているのだ。それは動物も
同じで、動物の”気”は肉気と呼ばれる。ちょっといやな名前だけど…。ちなみに、
動物は肉気に、植物は木気に感応することは何故かない。そのようにできているらしい)。
エリーは…火気だ。火気というのはちょっと難しい。火は人間の文明のいたるところに
存在するので、都市部などでは力を発揮するだろう。しかしそんなところを戦場には
したくない。
 「はあ、そうでしたね。思い出しました。」
 さも理解しましたと言わんばかりに大げさにうんうんとうなずきながら、ジャミルは
気の抜けた声を上げる。本当にわかってるの?
 「わかってますって。で、結局それでどういうことになるんですか?」
 ま、わかったならいいけど。それについてはこれから説明するから、ちゃんと聞いて
おきなさいよ。あんたって娘は、いまいち信用できないからね。
 「む〜、先輩ひどい〜!!」 
 やかましい。誰のせいでこうなったと思ってんの。そろそろ落ち着きというものを
持ってもらいたいものね、この愚かな後輩には。
 「今の私は、水気との感応で感覚が研ぎ澄まされているから、これだけ遠く離れていても
魔力を感知してエリーとあのピエロの位置を特定できるわ。地形も、一度見たからほぼ
記憶してるし。」
 普通の人間ならちょっといつもより音が聞こえやすいとか体調がいいとか、そんな
程度のことで終わるのだが、聖女騎士団の隊長、副隊長クラスになれば、この程度のことは
できて当たり前だ。例えば、1が2倍になっても1増えるだけだが、100が2倍に
なれば100増えるように、元の魔力が大きければ感応時の魔力増大は大変なものに
なるわけだ。ことに水気と感応する性質の魔力を持つものにとってこの巨大な水気の
かたまりである海は、ただその近くにいるだけで信じられないほどの力を与えてくれる。
地形を記憶してるというのは、私の場合、一目見ただけで大体のものは記憶できるのだ。
特にそういうことを自慢したいとも思わないが、少なくとも目の前の鳥頭とは頭の出来が
ちがうということだけはどうしても強調せずにはおれない。 
 「それで?」
 わたしは感知した情報と先ほど見た記憶を頼りに、大体の地形図を地面に描く。
 「エリーがいるのは…ここ、この崖っぷちね。そこにあいつもいるわ。おそらく拘束されて
いるはずよ。彼女の手足の魔力の流れが鈍くなってるからね…。だから、まずはその状況を
何とかしないことにはどうにもならないわ」
 ここまで言って、納得したようにジャミルはぽんと手を叩く。そのリアクション、わかり
やすいけど、ちょっと古くないかしら?
 「よーするに、あたしが囮になってる隙に、セシリア先輩がエリーゼ先輩を助け出すと」
 「そういうこと。まあ、今の実力差なら、本気で来られたら瞬殺でしょうけど、さっきの
様子じゃ簡単に殺すんじゃなくて、じわじわいたぶって楽しもうってタイプみたいだし」
 もしあれが本気だったら、エリーは即死していただろう。ひどい傷だったが魔力は確かに
感じるので、生きているのは間違いない。
 「あの〜、質も〜ん」
 相も変わらず気の入ってない声を出しおってからに。あんたといると緊張感がなくなるわ。
ま、だいぶそれで気も楽になるんだけどね。それだけは認めざるを得まい。私はため息を
つきながらわざと仕方なさそうな顔を作って答えてやる。
 「何?」
 「囮になるのはいいんですけど、じゃあどうやってエリーゼ先輩を助けるんです?一人が
戦ってる間にもう一人が助けるなんて、そんな簡単に行くとは思えませんけど…。エリーゼ
先輩に近づいた瞬間にあたしをほっといてセシリア先輩を倒しに行くんじゃ…」
 ふむ。あんたにしてはいい質問ね。てことはその鳥頭でも少しは考える力があるわけだ。
 「だから言ってるでしょ?全滅の危険は冒せないから、あんた一人で行けってね」
 「???」
 ジャミルは一瞬目が点になった後、眉をひそめて必死になって考えるしぐさをした。しかし
すぐにあきらめて、あっけらかんとした顔で答えを求めるように私に目を向ける。
ふ…まあ、期待はしてなかったけど、せめてもうちょっとは考えてもらいたいものね。
 「つまり、私は隠れて気づかれないように近づくから、あんたがせいぜい奴の気を引いて
時間を稼いで頂戴って言ってるの。わかってくれたかしら、この鳥頭?」
わたしはとびっきりの笑顔で言ってやった。ジャミルはものすごく傷ついたような顔になるが、
なあに、鳥頭のことだ。3歩歩けば忘れるだろう。
 「でっ、でもっ!」
 ちょっとすねたように唇を尖らせながら、むきになって必死に口答えをしようとするその姿を、
不覚ながらちょっとかわいいと思ってしまった自分に少しだけ怒りを覚えつつ、わたしは
とりあえず言い分を聞いてやることにする。
 「あそこは見通しのいい場所でしたよ?隠れるところなんてどこにもっ…」
 皆まで言わなくてよろしい。私は右手の人差し指をジャミルの口の前に当ててさえぎった。
 そう。その通り。あそこには隠れる場所なんてどこにもない。それは全く間違っていない。
だが、だからいい。だからこそいいのだ。どこかに誰かが隠れているなど想像もできないはず
だから。私はジャミルの口をさえぎっていた指を再び地面の地形図に戻し、ある一点を指し示した。
 「え…」
 そう…それは海。正確には、エリーが捕らわれているはずの崖の、真下だ。
 「私が先回りしてここで待つわ。そこへあんたが派手に登場して…要するに私への合図ね。
そしたら私がこの崖を登っていく…ただし、気づかれないように、魔力を完全に抑えてだけどね」
 「ええっ、それって…」
 そう、魔力を完全に抑えるということは、マジカルアーツは使えないということだ。それは
つまり普通の人間と同じになることを意味する。しかも、屈強な男ならまだしも、私は…女だ。
かなり厳しいのは認めざるを得ない。
 「そ、それならまだあたしの方がいいんじゃ…純粋な体力なら、先輩よりあたしが…」
 「だから、全滅の危険は冒せない…って話よ」
 「?」
 「あんたがバカだってことは、敵もすでに承知のことだと思うわ。だから、あんたが一人で
乗り込んでいくほうが、私が一人で行くより信用してもらいやすいはず」
 そこでジャミルは複雑そうな顔をする。
 「む、む〜。た、確かにそうかもしれませんけど…どいつもこいつも人のことバカバカって…」
 私は彼女の真紅の頭にポン、と手を乗せてウィンクする。ついでに少し笑いかけてやる。
む、何よそのいやそうな顔は?私だってほんとに笑うときくらいあるっての…
 「それにね、あんたの力を信じてるから、この役を任せられるのよ。いい?もし私が崖を
登りきっても、囮が先にやられてたんじゃ私も死ぬだけだしね」
 そして鳥頭から手をどけ、握りこぶしをつくって相手の胸を叩く。
 「私の命…あんたに預けたわよ!」
 途端、ジャミルの両の目が輝きを帯びる。比喩ではない。エルフの血をひいているせいだと
思うが、この娘は気分が高揚してくると、青い瞳がわずかに金色がかってくるのだ。こういう
ときのこいつは、常に予想外の力を発揮してくれる。気分屋だから、滅多に見せては
くれないけどね。いい意味でも悪い意味でも、この娘はいつだって私の組み上げた論理や計算など
見事にぶち壊してくれる。本当に、こいつといると飽きることなどあり得ない。
 「任せてください!囮役、立派につとめてみせましょう!」
 ジャミルはそういって胸をどんと叩く。鼻息も荒い。なんて乗せやすい奴だろう。こういう場合
バカは重宝するわね。
 「それに…」
 私は踵を返し、エリーがいるはずの方向を見つめた。ちょっとここでキメとくか。たまには
そういうのもいいだろう。
 「あの姫君を助けるナイト役だけは…誰にも譲れないのよね…!」
 姫君扱いされたら…まあきっとあの娘は喜ぶでしょうね。何故か男扱いしかされていないから。
あんなにかわいい娘って、そうはいないと思うんだけど。私が男だったら、絶対に放っては
おかないだろうに。




 「ここね…」
 ジャミルが目標地点に走り出したのを確認してから、私はミスリルメイルを装着して海に
飛び込んだ。ミスリルメイル装着時のみ、私たちは魔法を使うことができる。私の場合は勿論
水属性の魔法だ。それで海流を少し操って、あっという間に目的地まで泳ぐことができた。
ところで、そんなことをしたら敵に察知されてしまうのではないかと思う人もおありだろう。
しかしながら、海というのはそれこそとてつもなく膨大な水気を常に放ち続けているため、
海の中に入ってしまえば、それと結びつきやすい性質の魔力、すなわち私の魔力はそれに完全に
隠れてしまってまず察知することは不可能だ。ただし、少しでも海から出ればすぐに発見されて
しまうだろうが。呼吸については心配ない。私が使える魔法の中には、水中で呼吸できるという
ものもあるのだ。便利なもんでしょ?
 伝説によれば魔法というのは、古代には誰でも使うことができたという。この世界における魔法とは
どういうものか簡単に言えば、自らの魔力を体外に放出し、自然の”気”と融合させることによって
様々な奇跡を起こすというものだ。しかしながら、今の人間は魔力を体外に出すことはできない。
これは古代の発展し過ぎた魔法文明が女神の怒りを買い、滅ぼされたあとそのように変えられて
しまったためだとメリュジーヌ教は伝える。女神の怒りを買ったのかどうか、ということの証拠はないが、
古代魔法文明の存在とその滅亡には確かな証拠がいくつもある。聖女王家の存在もその一つだ。
聖女王家の人間の中には、稀に今でも魔法を使うことのできる者が生まれることがある。現在の聖女王で
あらせられるゼノビア陛下もそのお一人だ。陛下のお力は「癒し」である。しかもそのお力は
非凡なもので、私たちがどれほどひどい傷を負おうとも、生きてさえいれば猛毒を浴びようが腕が
もげようが体が半分に千切れようがたちどころに全快してしまうのだ(傷を受けてから数日も
経ってしまうともうかすり傷でも治せなくなってしまうが)。もっとも、治す傷が深いほどお力を
消耗されるので、私たちもできる限り傷を負わないように戦う必要がある。
 ジャミルが来るまでのしばしの間水中でじっと待っていると、崖の上から聞くに堪えない声が
聞こえてきた。
 悲鳴だ。水の中にいても、はっきりと聞こえる悲痛な叫び声。あの娘の澄んだ声がどんどんかすれて
小さくなっていくにつれ、私の胸は張り裂けそうになる。私は拳を強く握り締め、今にも血が出そうなほど
きつく歯噛みした。
 ごめん、エリー…今は、助けられない。でも必ず…必ず助けるから…
 その時だった。待ちに待った、もう一人の声。
 よし…崖っぷちにふよふよ浮いていたピエロが、声の方へゆっくり向かっていく。
 今だ。私は装備を解除すると、魔力を完全に消し去った。そして、ミスリルメイルを解除した瞬間
ズブ濡れになった元の服をベルトと小さな袋を残してその場に脱ぎ捨て、素っ裸になると(濡れた服を着た
ままでは重くてとても登れない)、ミスリルレイピアと袋をそのベルトで腰に巻きつけ、少しづつ崖を
登っていく。
 登る、といっても、岩に手をかけて登るというのでは、手をかけられるところがないような崖だった
ときはどうにもならないので、騎士のたしなみとしていつも懐に隠し持っているナイフを袋から出し、崖に
刺しこみながら登っていく。これは特殊な金属でできているナイフで、岩くらいなら簡単に刺さるのだ。
勿論、1本では足りないのでジャミルの分も借りて2本で。 
 全く…我ながらなんともお粗末な作戦だこと。私がここを登っていることを気づかれないことも、
登りきるまでジャミルが持ちこたえることも、いやそもそも私がこの崖を登りきれるかどうかということも
…すべては、賭けだ。確定的な要素など、何一つとしてありはしない。
 私の命を預ける、と言ったが、私のほうも2人の命を預かっていることになる。私がこの崖を登れ
なければ全ては終わりなのだ。そして例え登っても、すでにジャミルがやられてしまった後では
遅すぎる。どんなに辛くても、私はこの崖を登りきらなくてはならない。それも早急に。
 「う…くぅうっ」
 汗が流れ落ちる。手が痺れる。次第に意識が薄れていく。今にも落ちてしまいそうだ。上を見れば、
まだ三分の一も登ってはいない…。長い。果てしなく長く、遠い。
 やっぱり、私には無理だったの…?
 「ああっ!?」
 新たな悲鳴に、私は自分を取り戻す。
 私はこんなところで何をやっているんだ。こんなところで…
 こんなところで終わってたまるか!!
 私は目を見開き、手に力を込める。
 ひたすらに続くジャミルの悲鳴が、逆に私に力をくれる。まだ、持ちこたえてくれている。
頑張ってくれているんだと。
 そして、ついに…
 私は、登りきった。ようやく、求める姫君のもとへとたどりついたのだ。
 「セ、セシル!?」
 思わぬところからの思わぬ人物の登場に、囚われの姫君は驚嘆の声を漏らす。私は自分の口の前に
人差し指をあて、沈黙を促す。
 セシル…か。あなたが私をそう呼ぶようになったのはいつからだったかな…。それは同時に、私が
あなたをエリーと呼ぶようになった日。 


  子供のころの私は、表情というものを一切持ち合わせていなかった。今もそうだろうと言われる
かもしれないが、今の無表情というのはあくまで感情を表に出さないためのポーカーフェイス。
いわばフェイクだ。だが、子供のころの私は、本当に何の表情も持っていなかったのだ。それは、
感情がなかった、と言い換えてもいい。
 私にとって、すべては当たり前のことだった。
 12聖司卿家筆頭ミルディン家に生まれた者として、何一つとして手に入らぬものはなかった。
 「ミルディン家始まって以来の天才」と呼ばれ、あらゆることは一目見ただけで完璧にこなすことが
できた。
 できて当たり前、手に入って当たり前。できなくて悔しいという思いもしなかったし、手に
入らなくて腹立たしいということもなかった。また、そのかわりにできて楽しいとか、手に入って
嬉しいとか、そういう感情も生まれ得なかった。聖女騎士となるべく神学校に入学したのも、
ミルディン家の女性は聖女騎士になるのが当たり前だと思っていたからであって、なりたいとか
本当はなりたくないとか、そんなことも一切考えたことはなかった。
 周りの人間も、その人がいてどうとか、いなくてどうとか、そんなことには全く関心がなく、
人間などすべて路傍の石と何も変わらないものと認識していた。
 当然、寮で同じ部屋になった小柄でやせっぽちの青い髪の少女も、私にとっては他と変わらぬ
路傍の石。何か仲良くしようとか言っていたようだったが、路傍の石と仲良くする者がいるだろうか。
できないことなどない私だったが、他人の名前を覚えることだけはどうしてもできなかった。
石には名前などないからだ。
 しかし、そんな私でも同じ部屋の石としばらく接しているうちに、微妙ながら変化が起こって
きたのだった。
 神学校の騎士科の寮では、食事どきの給仕は一番下の学年が行うことになっていて、当然、私と
その石も毎日給仕をしていた。私は勿論慣れない作業(この私が給仕なんてやったことあるわけない
でしょう)だったがすぐに完璧にこなすようになった。しかし、その石は違った。
 どんくさい。とにかくどんくさい。モタモタモタモタして、毎日のように上級生に怒られている。
私はそれが不思議で不思議でならなかった。できない、ということが理解できなかったのだ。
そして、そんな石を見ていると、次第にもやもやしたもの自分の中にできていることに気づく。
そしてさらに気がつくと、私はその石を手伝ってやっていた。後になって理解したのだが、それは
つまるところ「イライラ」だったのだ。その石があんまりどんくさいので、イライラしてかわりに
やってやったというわけだ。そうすると、その石がありがとう、とか言って笑いかけてきた。
そのときにまた、得体の知れない何かが私の中に芽生える。それは…とても、暖かいと感じられる
ものだった。
 そんな初めての体験に、私は驚きを隠せなかった。もっとも、驚く、ということも初めてのことで
当時はそれがよくわからなかったものだが。それで少しは、私もその石に興味を持ち始めることに
なった。
 その石がどんくさいのは何も給仕に限ったことではなくて、実技の授業に関してはとにかくクラスでも
常に最低の成績をほしいままにしていた。特に武術に関する授業(試合形式で行うものだ)では、いつも
専ら攻撃を受ける役に徹していたので、かなりの泣き虫であるらしいその石はよく泣いていた。
だが、すぐに石は立ち直り、クラスのほかの石にかかって行ってはまたやられ、泣く。
 そして数ヶ月後にとうとう、私がその石と試合することとなった。当時の私の斬撃といったら、すでに
大の男でもよけられないほどの鋭いものだった。なのでそのころには私とやろうという者がいなくなって
しまい、やりたいというその石と仕方なくやることになった。勝負は一瞬。手加減というものの存在さえ
知らない私は、練習用の剣を思い切り石の頭にたたきつけてしまった。当然ながら、どんくさい石は
まともにそれをくらい、次の瞬間にはすっかりのびてしまっていた。
 さすがに多少の罪悪感(勿論初めての感情だ)を感じた私は、石が目を覚ますまでベッドの横に
座ってじっと待っていた。石が目を覚ましたのは日もすっかり暮れて、就寝時間も近い頃合いだった。
 「!!」
 目が覚めたのかと思った瞬間、石は驚いた顔でガバっとすごい勢いで起きだすと、窓の外を見て
私に時間を尋ねる。私が答えてやると、急いで起きだしてあわただしく部屋を出て行った。
 一体何事なのか、私は興味をひかれて石のあとをついていった。
 「修練場…?」
 そう、そこは騎士科の学生が使う修練場。そこは自主トレのために夕食後から就寝時間まで
開放されていて、誰でも自由に使うことができたのだ。勿論私はそれまでそんな時間にそんなところに
行ったことなどなかった。
 そこにいたほかの学生(実はそれはエーヴェル先輩だったりしたのだがそのときの私は彼女の名前など
知らなかった)によると、我が同室の石は入学以来毎日のように通っては就寝時間ギリギリまで自主トレを
欠かしていないらしかった。先ほど慌てていたのも、もうすぐ就寝時間になって修練場が閉まるから
だったというわけだ。
 そしてそれから何ヶ月か後の話になる。授業での試合において、私はまたその石と試合することになった。
そのころには多少手加減というものを理解するようになっていたから、今度は気絶させないように
しなければ…などと思っていた私だったのだが、思わぬ展開を迎えることになる。
 開始早々、いきなりの鋭い突きが私を襲ったのだ。何とかかわしたものの、予想だにしない強力な攻撃に
ひるんだ私は、手加減する余裕を失って、本気でかつて彼女を気絶せしめた斬撃を放ってしまったのだ。
だが、事態はさらに思いもつかない方向へと展開する。
 かわされた。本気の攻撃を。そして、あろうことか相手の剣が私の頭に軽く触れた。
 …負けた。
 この、私が?何事も最下位をほしいままにしていた、このどんくさい石に?
 あとで人から聞いた話では、そのときの私は手を震わせて目を見開いていたらしい。そしてしばらく
すると眉を思いっきりひそめ、唇を今にも食いちぎらんばかりに噛みしめたという。
 何だかわけのわからないもやもやが私の心にいっぱいに広がっていた。そして、次の瞬間私は
誰もが信じられない行動を取るのだった。
 「痛ったぁ〜〜い!!」
 初めての勝利に満面の笑みを浮かべて大喜びするその石の頭に、あろうことか私は思い切り持っていた
剣をたたきつけたのだ。みるみるうちに笑顔が泣き顔に変わる。それを見て、私の胸は槍か何かで貫かれた
ように激しく痛んだ。何か、やってはいけないことをやってしまった、という感じがした。
 そして私はその場で取り押さえられ、3時間ほどクレスティア先生(ジャミルの養母だ)のお説教を
聞く羽目に陥ったのだった。石の方はというと、親切なクラスメイトに連れられて寮の部屋へと戻って
いったようだ。
 「…卑怯者…」
 ようやくお説教から解放された私が部屋へと戻ったとき、最初に聞いたのはその言葉だった。
 「勝負はついてたのに、いきなり殴るなんて…」
 それは、初めて見る彼女の表情。卑怯なことは大嫌いだと言って、私を非難しにらみつける顔。
 私は先ほど感じたのよりもっと強い痛みを胸に感じた。
 無性に恋しくなった。気がつけばいつも私に向けられていた、あの太陽のようにまぶしい笑顔が。
 一体、どうすればいい?私は、自分の持てる知識を総動員したが、答えは出てきてはくれない。
そんな体験がこれまで一度もないのだ。一生懸命に考えるのだが、ただただ気まずい沈黙が流れる
ばかりだった。
 「簡単なことよ」
 どうすればいいのかわからくて、私はとりあえずその場を出て先ほどまで散々お説教を受けていた
あまり近づきたくないクレスティア先生のところへ相談しに行った。クレスティア先生は、私の
母アイラ(当時は聖女騎士団長だった)の副官だった人で、小さい頃からよく知っていたので
こういうときは他の教師たちより話しやすかったのだ。彼女は、小さい頃から何にも興味を示さず
何の表情も持たなかった私がそのように困ったりましてや誰かに相談を持ちかけたりするようになった
ことをとても喜んでいたようで、にっこりと笑って私にアドバイスをくれた。
 「悪いことをしたら…ごめんなさいって、ただ一言言えばいいのよ」
 今思えば小さな子に言って聞かせるような台詞だ。しかし当時の私にはそんなことすらわからなかった
のだ。何とも恥ずかしい限りだけれど。まあそれはさておき、私は先生の言う通りにした。
 「ゴメンナサイ」
 彼女は目を真ん丸くして聞いていた。私から話しかけるのは、何しろ初めてでぎこちなかったし、
しかもそれが無表情であったから、本当に謝ってるのか、疑わしいと思ったのかもしれない。
私は慌てて説明を試みた。
 「わ、私…何であんなことしたのか…自分でも、よ、よくわからなくて…」
 さらにきょとんとする彼女。もう私は必死になって何か言おうとするのだが、上手く言葉にならない。
このままではまた怒らせてしまうかもしれないと、次第に泣きそうになってくる。
 しかし、意外な反応が返って来た。
 「ぶっ…あはははははっ!」
 笑っている。お腹を抱えて大笑いしている。
 「いや、ごめ、その…くくく…」
 今度は私のほうがきょとんとする番だった。しばらくひーひーと苦しそうにしながら笑い続ける彼女を
呆然と見つめていると、何とか笑いがおさまってきた頃にようやく彼女はまともな言葉を口にした。
 「ごめんね…でも、セシリアさんでも、そんな風に困った顔したり必死になったりすることが
あるんだな…と思って」
 そこで、ついに曇り空は完全に晴れて、またあのまぶしい太陽が顔を覗かせた。
 「しかもそれが私のためだって思ったら…たまらなく嬉しくなっちゃったのね。ごめんね笑ったりして」
 ああ、まただ…また、あの暖かい感じが、全身に広がってくる。私は、これが欲しかったんだ、きっと。
何かが欲しいと思ったのは、これが初めてだった。そして、二度と手放したくないと思った。近づきたい。
彼女と、もっともっと。 
 「あの…あなたの、名前…教えて…」
 いやあ、さすがにそれはショックだったでしょうねぇ。半年以上も同じ部屋に住んでて今更そんな…。
彼女は一瞬ものすごい表情で固まっていた。
が、すぐにさっきよりまぶしい笑顔で元気よく答えてくれた。
 「私はエリーゼ・アグストリア。よろしくね、セシリアさん!」
 その日から…私は他人の名前が覚えられるようになった。石ころしかなかった私の周りは、人間で
あふれるようになったのだ。
 で、それからさらに数ヶ月後。そのようなことがあったといっても私は相変わらずの無表情で、殆ど
態度の変化はなかった。ここにきて初めてわかったことは、私という人間はあんまり素直な性格では
ないらしいということだった。もっともっと親しくなりたいとか、彼女が他の子たちとしているように
楽しく談笑してみたりとか、そういうことをしたいと思ってはいたのだが、何と言うか、この私が、
他の人間がやっているようなことと同じことをするなんて…みたいな、どうでもいいプライドとか、
笑ったり怒ったり泣いたり、そういう感情を表にあらわすのがなんだか気恥ずかしかったり、これまで
知らなかった様々な感情の波が怒涛のように押し寄せて、何が何だか自分でも整理がつかなかったり…
まあ、その辺のことは彼女もよく承知していてくれたようなので、私がそのようなそっけない態度を
取っていても変わらず笑顔で接してくれていたが。しかしまあ…進展というものが、なかったのだ。
 「ねえねえ、セシルって呼んでもいい?」
 一度そんなことを言ってくれたりしたことがあったが、勿論私はにべもなく拒否した。ものすごく
嬉しかったくせに。
 雨降って地固まる、とはよく言ったもので、そんな状態から私たちが今のような、いわゆる親友と
いうような関係になったのは、ある事件がきっかけだった。
 思い出したくもないから、手短に話すけれど、経緯は次のようなものだ。母の部下(つまり
聖女騎士)で、実力のある者がいて、その当時あった人事では第1騎士隊の隊長は確実視されて
いたのだが、多少性格に難があるために母がそれを認めなかったということがあった。そのことを
逆恨みしたそいつは、あろうことか…その娘の私に手を出した。
 ちょうどエリーが夜の自主トレに出ていて私一人が部屋にいたときだ…突然侵入してきた何者かに
私は寮の外、人目につきにくい場所に連れ去られ、猿轡をされて…そして、色々された。
 何をされたか…はもう本当に思い出すだけで身の毛もよだつことだが、少しソフトな言い方をすると、
色々な初体験がそいつに奪われたということだ。そいつはレズだった。私が同年代の間ではいくら
強いといっても相手は大人、しかもマジカルアーツを習得した正式な聖女騎士だ。私に抵抗らしい
抵抗などできるはずもなかった。
 そして、欲望を満足させたそいつは、最後に…背後から私に斬りつけた。私は必死になって
よけようとしたため、即死は免れたが、その後数日生死の境をさまようくらいの重症を負わされる
ことになった。そのときの傷は今なお私の背中に消えずに残っている。
 斬られたところで私は意識を失ってしまいその後何があったのかははっきりとはわからないが、
クレスティア先生がすんでのところで駆けつけて、私を救ってくれたということだ。奴については、
逃げられてその後は一切行方が知れないという。もしいつか奴を見つけたら…必ずこの手で
八つ裂きにしてやらずにはおかない。
 瀕死の重症を負った私が目を覚ましたのは、それから3日後、寮の自分の部屋のベッドだった。
 「エリー…ゼ?」
 目覚めた私が最初に見たものは、一心不乱に窓辺から空にむかって祈りをささげるエリーの
後姿だった。
 「あ…あっ?」
 私が目覚めたことに気づいた彼女が振り向く。そして、振り向いた彼女の顔に、私はぎょっとした。
真っ赤に泣きはらした目。その下には真っ黒な隈。頬もこけている。まさに憔悴しきっている、と
いう感じだ。
 驚いた私が何ごとか尋ねると、何と彼女は、私が目を覚ますまでの三日三晩、ひたすらに女神に
祈りを捧げていたという。私を助けてくださいと。それも、不眠不休で。誰に休めと言われても頑と
して祈りをやめなかったらしい。
 「でも…良かった…良がっだぁぁ〜〜っ!!」
 それからすぐ、彼女は堰を切ったように大泣きをしはじめた。もう…本当に泣き虫なんだから…。
でも、私のためにそこまでしてくれる人が…家族以外でいるだろうか?少なくとも、今まで
私の周りにいた人間は家族やクレスティア先生などを除けば、私を「聖司卿家の長子」という存在と
してしか見ていない者たちばかりだった。あくまでそういう存在だから仕えもすれば、お近づきに
なろうともする。だが、そのような者たちの中には、私がこういう状態になっても、多少は心配して
くれる者はあってもここまでしてくれる者などいないだろう。だが彼女は…私を「セシリア」という
人間として見てくれている。それだけではない。これほどまでに、私のために泣いてくれている。
そう思ったとき、その彼女の泣き虫が伝染したかのように、私まで大泣きをしてしまい、しばらく
収集がつかないような状態になってしまった。今でも、あのときのことを思い出せば苦笑を
禁じえない。
 ようやく二人とも落ち着いた頃になって、私は弱々しくも何とか身体を起こすと、しっかりした
声で彼女に話しかけた。
 「そこの…ナイフを、取ってくれる?」
 私の指差した先には、小さなテーブルがあり、その上には小さな果物ナイフがあった。私が
いつ目覚めてもすぐに食べさせてくれるために、その横にはりんごも置いてあった。
 彼女は不思議そうにしていたが、すぐに私の言うとおりにしてくれた。
 「はい。でも、こんなもの…どうするの?」
 彼女はそれを、刃を自分が持って私には柄の方を向けて渡してくれた。それを私は、ひっくり
返して今度は自分が刃を両手で持ち、捧げるように柄を彼女へと向け、自らの頭を低く垂れた。
 「え…それ…って…?」
 彼女の目が点になる。それはそうだろう。これは騎士が主君に対して行う「剣の誓い」だ。
主君以外に対しこれを行うなど、反逆罪にも問われかねないような大罪だろう。だがこれは、
戦女神ケイロンを祀る武の名門たる我がミルディン家に伝わる秘密の儀式なのだ。この人のためなら
全てを投げ打つことも辞さないという、生涯ただ一人の相手にのみ許された、友情の儀式。
だからこそ、主君以外に行うことを許されない、剣の誓いで自らの覚悟を相手に示すのだ。 
 「今はこんなナイフしかなくて、申し訳ないのだけれど…」
 と断りを入れてから、私はおもむろに儀式の決まり文句を述べる。
 「ミルディンの名と我が命にかけて、我は誓う…あなたに何時如何なる危難が訪れようとも、
我は我が剣と全ての財をもって、あなたを守り援けると」
 彼女は真剣な眼差しで、居住まいをただして私を見つめている。
 「我が誓い…お受けいただきたい。我が友、エリーゼ・アグストリアよ…」
 硬く引き締まった表情から、柔らかな微笑みへと表情を変え、彼女はゆっくりと私の捧げる剣を
受け取り、それにキスをして、そっと私へと返してくれた。
 「喜んで…我が友よ…」
 「ありがとう」
 私は微笑み返す。すると、今度は彼女が貸して、と言ってナイフを私から取り上げて…何と、
跪いて、私と同じポーズを取った。剣の誓いだ。今度は私の目が点になる。
 「私も、今あなたが言ったのと同じことを、あなたに誓う。私は、ただの小さな村の司祭の娘で、
それに何をやらせてもどんくさいから、何の助けにもならないかもしれないけど…」
 ちょっとすまなそうな情けなさそうな笑い顔から、そこでまた先ほど私の話を聞いていたときの
真剣な眼差しになる。
 「この命かけて…あなたのために力を尽くすことを誓います。我が友、セシリア・ミルディン」
 またしても、大泣きしそうになった。しかしそこは必死にこらえ、彼女の剣を受け、キスをして
返す。でも私はまたすぐにそれを返してもらった。大事に取っておいて、家宝にでもしようと思う。
 「あの…この前の話だけど…」
 私はごにょごにょと口ごもりながら、ちょっと目線を横に逸らしつつ話しかけた。
 「ん、何?」
 私何か言ったっけ?と思い出すように視線を上へ向ける彼女に、さらに口ごもりながら私は続ける。
 「セシルって…呼んでもいいわよ、私のこと…」
 彼女の顔がぱぁっと輝く。
 「ほんと?」
 「でも、一つだけ条件があるわ」
 「え、条件?」
 彼女は不思議そうな顔をして首を傾げる。私はそこで、にっ、と笑う。
 「あなたのこと…エリーって呼ばせてくれたらね」


 あなたは、私にたくさんのものを与えてくれた。ただの機械人形でしかなかった私を、人間にして
くれた。私の世界に、光をもたらしてくれた。
 それまで女神などまともに信仰してはいなかった私だったが、そのときからすっかり敬虔な信徒に
なりかわってしまった。私をあなたに会わせてくれた、女神メリュジーヌ。私はその女神のためなら、
この命捧げても惜しくはない。
 だけど。
 もしもその女神が、今度は私からあなたを奪うと言うのなら…
 私は、女神にすら、剣を向けよう。何を躊躇うこともなく。
  そこまで覚悟を決めている私だ。今更あんなピエロごとき、何をおそれることがあろうか。
 私は安心させるようにエリーに笑いかけると、腰のレイピアを抜き放ち、彼女を捕らえている手足の
縄を断ち切ってそっと下ろしてあげる。そしてそのまま手に持ったレイピアに魔力を込めて声高らかに
叫んだ。
 「イクイップ!」
 流れる水が私の周りに渦を巻いた次の瞬間、それは青い衣となって私を包み込む。そしてまだ
ピエロがジャミルを痛めつけるのに夢中になってこちらに気づかないのを確かめると、私はレイピアの
細身の刀身をさきほどまでエリーを磔にしていた忌々しき十字架へと向けた。
 「はあぁっ!」
 私がレイピアを一閃させると、轟音とともに、十字架が真っ二つになって崩れ落ちる。金属製の
ようだったが、さすがは魔導金属ミスリル、こんな細身でも強度と切れ味は抜群だ。
 ところで、すでにエリーを解放していると言うのに何故わざわざ十字架を切り倒したのかというと、
それは演出だ。派手な登場をして相手の注意を引くための。効果はてきめんだったようで、ピエロは
おかしな声をあげて大仰に驚いてみせ、すっかりジャミルのことを忘れ去ってしまったようだ。
これで驚きのあまり冷静さを欠いてでもくれたらありがたいのだけどね。さすがにそこまでは期待でき
ないか…と、そう、思っていたのだが、この先は意外な展開が待っていた。
 「さっきは気づかなかったけど…キミ、その魔力は…」
 何?心なしかピエロの声が震えているように聞こえる。私の魔力がどうしたというのか。
 「昔、感じたことが…ある…そうだ、これは、これは…あいつに、似ている…!!」
 もう明らかにそれとわかるほどに声は震え、それどころか身体まで震えている。何が起こって
いるのかいぶかっていた私は、次の一瞬自分の首と胴体が離れたような錯覚を味わった。気がつくと、
ただそれだけで身がズタズタに切り裂かれてしまいそうな、異様なまでに研ぎ澄まされた殺気が
ピエロから私に向けられていた。
 「お前…ルクレツィアの…ルクレツィア・ミルディンの子孫か…!!」
 ルクレツィア?それは私の直接の祖先に当たる人で、400年ほど前の人物だ。しかし聖女騎士では
あったが団長になったわけでも、ミルディンの家督を継いだというわけでもない人なので、ミルディン
家の人間以外はあまりその名を知る者もいない。何故、そんな人の名が?
 そうか、目の前のこいつもまた400年前の実在の人物であり、亡霊となって今も存在し続けている
といわれる者。ならばおそらく、こいつが亡霊となった理由に、我が祖先ルクレツィアが関わって
いるということか。これほどの殺気を向けられるとなると、おそらくは直接的な怨恨を持っていると
考えてほぼ間違いないだろう。謎の存在ピエロ・マリーの秘密に少し近づけたのは興味深いことでは
あったが、先祖の恨みなど、子孫の私に言われても困るというものだ。まあでも、何か思惑とは
違う方向で冷静さを失ってくれつつあるようだ。
 「聖女騎士ルクレツィア、そして我が祖母、聖女王イーヴァ・ディエル・イグナティウス…!
許さぬ、決して、許せぬ…私から全てを奪い、地獄へと突きとした貴様らだけは、絶対に…!!」
 聞きもしないのに何やら勝手に語りだしたようだ。しかし非常にまたこれも興味深い話ではある。
 「今の聖女王家は汚らわしきイーヴァの血筋とはいえ、我が母リディエラ、そして我と我が娘
エリアの子孫でもある故滅ぼしはせぬ…だが、貴様は違う!!あの忌々しき女、ルクレツィアの子孫は、
全て根絶やしにしてくれるわ…!!!」
 ちょっと待て。今かなり重大な発言をしたぞこいつは。400年前の聖女王家の系図では、
イーヴァ帝にはオリヴィアという王女が一人いて、その王女が即位前に病没されたために後年
そのオリヴィア姫の娘であるエリアが聖女王となったとされている。しかし、このマリーがイーヴァの
孫で、エリアの母親?しかも、その母は…リディエラ?そのような王女がいたという記録は一切
残っていないはずだ。無論、マリーについても同様だ。
 そういえば、歴史家の間では常識だが聖女王家の手前公的には発言できないこととして、
オリヴィア姫とエリア帝の生没年の謎というのがある。聖女王家の記録以外の、貴族や教会、民間の
史料などを総合した結果、どうやらエリア帝はオリヴィア姫の没後15年目に生誕されているよう
なのだ。母親の死から15年後に生まれてくる子供など、いるだろうか?このことから、ここに
何らかの改竄があるであろうことは、歴史家なら誰もが知っている話なのだとか。
 ただの訳のわからない亡霊としか認識していなかったが…このマリーの存在は、歴史の裏に隠された、
何か重大な謎と絡み合っているというのか。驚愕とともに抑えきれない好奇心が湧き上がる。
 しかしながら、そうとばかりも言っておられない。何せ今、私は殺害予告を受けたのだ。それも
一族もろともだ。もっとも、おとなしく殺されてなどやりはしないが。
 「セシル…」
 後ろで弱々しくエリーが私の名を呼んだ。私は振り返る。
 「何で、来たの…?このままじゃ…このままじゃ、3人ともここで…うあっ!?」
 私はそれ以上言わせまいと彼女にデコピンをかましてやった。やる前から思いっきり額が割られて
いたが、そんなことは気にしない気にしない。しばらく悶絶しちゃったけどもね。バカなこと言う
あなたが悪い。
 あなたの言いたいことはわかる。そしてそれが正しいことであることも。私もさっきは気が
動転してあなたを見捨てるべきだと思ったくらいだ。だが、少し口惜しい話だが、あの鳥頭のおかげで
私は冷静さを取り戻すことができたので、それが決して選ぶことのできない選択肢だということを
思い出したから今私はここにいるのだ。
 「あなたは忘れたの?あの日の誓いを…私はあなたに誓ったはずよ。この命かけて、あなたを
守ると…!」
 まだ何かもごもごと言いかけたが、結局エリーは、そこで俯いた。きっと、涙をこらえていたの
だと思う。あの日、あなたの誓いを受けたときの私のように。
 あなただって、きっと私が同じ立場になったら、命をかけて私を助けに来てくれたはずよ。
あなたはそういう人だから。だからこそ、私はあなたのためになら命だってかける。そして、あなたが
そういう人だから、あなたの周りには人が集まる。第1騎士隊の皆だってあなたの下で働けることを、
心から誇りに思っている。勿論私だって同じ。隊長に選ばれたとき、あなたは何故自分なのか不思議で
仕方ないと思っていたようだけど、あなた以外の誰も、それを不思議だとも不満だとも思って
いなかったのよ。
 これからも、私はあなたのために戦う。あなたの幸せのために。だからあなたの守るものを、私も
一緒に守る。あなたを悲しませるから、私は絶対死なないし、ジャミルだって死なせない。
 私は私を心配そうに見上げるエリーの手をそっと自分の手で包み込んだ。
 「大丈夫。私を信じて。何があっても、この場を動かないでね…」
 「…うん。わかった」
 信じて、と言った途端に彼女の目は輝きを取り戻す。絶望が希望へと変わる。そして私の手を強く
握り返してくれる。それがまた私に勇気を与えてくれる。
 さあ、やろうか…私はピエロの方へ向き直る。ジャミルがここまで何とか持ちこたえてくれたんだ。
ここからは、私の仕事。
 「コロスコロスコロスコロスコロス……」
 もはや、先ほどまでの道化た様子は微塵も存在しなかった。ただただ目の前にいる生きたものを
殺すためだけに存在する殺人機械と成り果ててしまっている。おそらくこの殺気だけで、並の人間は
体がバラバラになってしまうのではないだろうかとさえ思われた。
 私はまずその場を離れるために右手の方向へと駆け出した。エリーの安全のためだ。それにあわせて
ピエロもゆっくりとこちらを目指して近づいてくる。
 ある程度エリーから距離をとれたところで、私は足を止めた。そしてピエロの方へ目をやった…
と思ったその瞬間、私の顔は何故かまだエリーの方を向いていた。
 あまりの衝撃に、ヘルムが吹っ飛ぶ。意識も一瞬飛ぶ。殴られたのだ。いつの間にか、顔面を。
 「なっ…いつの間にこんな近くに…っ!」
 「コロスコロスコロス…!」
 ピエロはひたすらに私の顔面を殴り続ける。このっ、何をする!この私の美貌が損なわれたら、
それは世界にとっての損失だと言うのに!ま、あとで陛下に治していただくけれどもね。
 「ぐぅ!ああっ!!きゃああぁっ!!!」
 執拗に、執拗にピエロは私の顔だけを正確に殴り続ける。もしかしたら私の顔が、祖先の
ルクレツィアに似ているのかもしれない。それにしても、そんな顔は見るのも汚らわしいから、
この世から消してやる、とでも言わんばかりの執拗さだ。
 「ぐあぅっ…!がはあっ…はぁ、はぁ…んあああっ!…」
 鼻が折れた。唇もズタズタ、瞼もばっさりだ。顔がもう真っ赤になってしまっているんじゃ
なかろうか。
 しかし。しかしだ。これはチャンスだ。顔にしか攻撃が来ないとわかっているのだから、守るのも
容易い。普通はどこへ攻撃が来てもいいように、防御のための魔力は全身に張り巡らせてある。それが
今は顔だけでよいのだから、その全てを顔だけに集中させることができる。それはそれだけ防御力が
高まるということだ。それが証拠に、これほど執拗に攻撃を受け続けているのに、決して意識を
失ったりはしない。全く、冷静さを失った奴やバカというのは扱いやすい。
 「ああああっ!!」
 しかしまあ、痛いのは間違いない。くそ、いい加減にしなさいよ。
 「コロス!!」
 「うああああっ!!」
 それまで怒涛の連続攻撃を止めて一瞬ぴたりと動きを止めた後、ピエロは強烈な一撃を相も変わらず
私の顔面へ向けて放つ。さすがに受けきれずに私ははるか後方へ吹っ飛ばされる。そうして倒れた
ところへ、ピエロが一瞬で間合いをつめて馬乗りになる。
 「うくっ、や、やめ…あぐぅっ!!ううぅっ!!!」
 殴られながら、私は後ろを確認した。そこは崖っぷち。もう少しで落ちるという寸前の場所だ。
 「ああぅ!!うぐぁ…はっ…!」
 「コロスコロスコロスコロスコロス…」
 もう何発殴られたか、数え切れやしない。だがまだまだ全く足りないという風に何が変化する
様子もなくひたすらに私の顔を殴り続ける。
 全く…言ったでしょ、冷静さを欠いたやつは、扱いやすいってね。
 私は心の中でニヤリと笑みを浮かべた。
 …準備は整った。すでにエリーとジャミルとはかなりの距離ができている。今まで何もせずただ
殴られ続けていたのは、別になす術がなかったからじゃない。今の私は、海の膨大な水気との感応に
よって、あんたのそのでたらめな攻撃を見切るくらい、訳はないというのに。2人から距離を取り、
そして…私自身はこの、崖っぷちに来るように、追い詰められるように見せかけて、気づかれないように
少しづつここを目指して後退していたのだ。調子にのりすぎたわね。そんなだから、自分よりはるかに
弱い相手に出し抜かれることになるのよ。 
 …さあ、見てなさい!!
 私は利き手である左手に顔の防御のため以外の全ての魔力を集中させた。
 「今の私にあんたは倒せないでしょう…でもね」
 顔に攻撃が来るとわかってるわけだから、いつもの数倍に魔力が高まっている今の私なら、防御に
集中すればおそらくダメージは相当に軽減されていたはずだ。だがそれをしなかったのは…ひたすらに
魔力を研ぎ澄ませ、その全てをぶつけるためだったのだ。今、この瞬間に。
 そう、全ては、この一瞬のチャンスのために。
 「あんたを吹っ飛ばすことくらいは、できるのよ!!」
 私は溜めに溜めた左手の魔力を、殴りかかってくるマリーにカウンターの形で奴の心臓に向けて
一気に炸裂させた!
 余談だが、人間は体外に魔力を放出することができない。しかしながら、魔力の媒介となる物質さえ
あれば、それが可能となる。その物質が、魔具と呼ばれるものであり、今私が装着しているミスリル
メイルもまた魔具である。魔具を用いればまた、それによって放出された魔力がある特定の”気”と
結びつくことによって、ただ1種類限定だが魔法を使うことができる。例えばこのミスリルメイル
装着時のみ私は水の魔法が使える。だが、今私は”気”と魔力を結びつけた魔法ではなく、むき出しの
魔力を相手にぶつけた。実は魔法よりこちらのほうが純粋な殺傷力は高いのだが、そういうむき出しの
魔力は”気”と結び付けないと一瞬で雲散霧消してしまうので、完全な零距離以外では使えないのだ。 
 「ぐぅああっ!!?」 
 さすがのマリーもいきなりの攻撃はこたえたと見えて、非人間的な声から一変、ああ、それでは
奴も人間なのだと感じさせる悲鳴を上げる。
 自分でも驚いたことに、ことのほか今の攻撃には威力があったようで、マリーの心臓部に風穴が
開いていた。ぶち切れて攻撃に集中していたから、防御がおろそかになっていたのかもしれない。
だがしかし、そこからは真っ赤な血が噴き出していた。亡霊というものの、奴は私たちに触れることが
できるのだから、肉体は確かに存在しているはずで、ならばてっきりゾンビか何かだろうと思っていたが、
それではこいつの肉体は生きているというのか?
 私はと言うと、自分の攻撃の衝撃で後ろへ吹っ飛び、今はすでに下に大地が存在しない状況だ。
落ち際にちらりとマリーを見たが、何と驚いたことに、心臓が吹き飛んでいるのに、くるりと空中で
1回転するとすぐに体勢を立て直した。馬鹿な。生きている肉体なら今ので確実に死んでいるはず
なのに。ますます謎が深まるばかりだ。
 まあ、初めから倒せるなどとは思っていないから、問題はない。さあ、ここからがこの作戦の本番だ。
私は攻撃の前、崖を登るときに武器と一緒に持ってきた袋から密かにあるものを取り出し、それを
しっかりと右手に持っていた。そして今、落下しながら私はそれを口にいれた。
 それは、笛だった。人差し指くらいの、小さな笛。私はそれを吹き鳴らした。途端、三筋の雷光が
ほとばしり、気がついたときには私たち3人はすでにその場にマリーを残して空の上の人となっていた。
 言うまでもない。それは我らが相棒たる3頭の飛竜たちだ。そのスピードたるや”エクレール”の
名の通りまさに雷光。さすがにマリーと言えどもこれには追いつけないはずだ。
 私が吹いたのは「飛竜笛」と呼ばれるもので、飛竜とともに暮らすハイランダーたちが用いる、飛竜を
呼ぶための笛だ。実は作戦決行前、この相棒たちにも作戦は伝えてあった。竜という生物は非常に知能が
発達しており、人語もほぼ解しているらしい。それが証拠に、今私たちは一瞬のうちに飛竜たちに
銜えられて空の上にいる。
 「い、痛い…」 
 とてつもないスピードのため、軽く銜えただけでは間違いなく落ちてしまうので、今にも噛み砕かん
ばかりの凄まじい力で相棒は私を口に入れているのだ。それだけでも気が遠くなる。ただでさえひどい怪我
だっていうのに。あとの二人もおそらくおなじ状況だろう。安全と思える場所まで行ったら、降ろして
もらって背中に乗ることにしよう。
 ああ、しかし、それにしても疲れた…
 今回は何とかなったけれど(と言っても逃げただけだが)、いずれはアレを倒さないことには話に
ならない。この先、戦いはより厳しいものになっていくだろう。
 だが、私はおそれない。私には、こんなにも心強い仲間たちがいるのだから。
 次第に痛みにも慣れてきたのかそれともそんなことすら気にならないほどに疲労していたか、やがて
この状況で私は自分の体が眠りを欲していることに気づく。
 まあ、もうここまで来たら大丈夫だろう。あとはこの相棒に任せておけば、王都まで運んでくれるはずだ。
私は安心し、一瞬のうちに深い眠りへと落ちたのだった。
 
 
  
  

  


               to be continued... 


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